「この人嫌い」と思ったら「この行為が嫌い」と置き換えて考えると、精神的に楽になる。
やはり人間関係をやってると、どうしても「このひと嫌いだなあ」と思うことがありますよね。ぼくもあります。けど、よく考えてみたら、ぼくが嫌いなのは「ひと」ではなく、「行為」だったんですよ。そこで、「この行為は嫌いだなあ」と変換するようにしたら、いちいち消耗せずに済むようになりました。
じぶんがやっていることを肯定するために、だれかがやっていることを否定する必要はないんです。じぶんは、やりたいことをやればいい。やりたくないことはやらなければいい。そこに他人は関係ない。もしも、だれかを不快に感じたなら、そっと距離を置く。向こうに悪意がないかぎりは、これで済みます。
相手はコントロールすることは出来ないけど、自分の思考はコントロールすることができる、という発想ですね。ただコメントは賛否両論で、「その人の行為の集合が、その人自身」であるので、行為と人を分割して考えるのには限度があるという主旨のコメントがいくつもありました。
みんなの反応どうでしょう
オレは簡単に割り切れないと思うがなあ。
ヒトとコトを分けるっていう話だと思うけど。
そのヒトのしたコトの束(たば)をまとめると、ヒトとか人格になるのではないか。
逆に、好きだなあというときにも、そのコトが好きなので、そのヒトを好きになれないってことになるが……
正論だけでは成り立たない事もあるのがこの世。
切り離せる人は切り離せても、私にはどうしても無理だ、決め付けているのではない、各々考え方が違う人間なのだからこそだと思う
最終的に残るのは、結局は人との繋がり。
自分と真逆でおもしろい。僕はこの人の事が嫌いやから、この人がどんなに世間的にみて良いこと正しいことしてても嫌なんだと思うようになってから楽になりました。いちいちその人の気持ちの悪さの理由探す必要無くなった
そういう捉え方もアリですね♪私結構人の好き嫌いが激しくて、だからといって自分が好かれるかと言えば違うのは分かってます。確かに毛嫌いする相手は、自分にとって反対な行動や言動から始まる気がします。まずは「我観て我振り返る」から「反面教師」でいきたいと思います。
「ひと」と「行為」は切り離されている
ある特定の人から好かれるか嫌われるかは、先天的に決まりそうな「ひと」で決定づけられるのではなく、誰にだってチャンスのある後天的努力で決まる
誰からも嫌われてる人が「行為」を変えるだけで、数ヶ月後、一部の人から熱狂的に好かれてる可能性も充分ある
人という種が好きであればいい。
「犬が好き」「猫が好き」とレベルは変わらない。
そして「人」には自分も含まれるので、「自分が好き」という肯定感情にも繋がっていく。
これ中学の時から言ってるけど誰にも理解されなかったし、「逃げ」とまで称されて自信なかったけど、ここまで伸びてるから間違ってはないのかなって再確認した。
嫌いな人はいるけど、行為というか雰囲気がやだとか感じが悪いとかの側面の方が多い気がする。
そもそも外見的なバイアスある気がするよね、、、
同じことやってても腹立つ人と腹立たん人いるじゃないの
これを何度も繰り返されると、「この行為をするこの人嫌いだなあ」になり、「この人嫌いだなあ」に変わるから結局は同じなのでは?
その人にそれ以外のいいところを見つけ出せれば、人を嫌いにならずに済むけど…
私もうこの域やなー。
ごく少数いる嫌いな”人”ってのは自分じゃなく自分の好きな人や大事な人に対して攻撃や口撃をしてきた奴やったりする( ˘ω˘ )
わたしはわたしを攻撃してくる人が嫌い 相手は攻撃だと思ってないものも含まれる 余裕がない時に限って話しかけてくるのはほんとむり でもそれしてくるの特定の人だからやっぱわたしはその人が嫌いなんだよ
その人自身は悪い人じゃないんだけど
言い方や行為が嫌いってのは
確かにあるというか今の職場にいる
けどそれでも今日も消耗して帰路についてる
logic@こんな人・サプライズ家庭教師@CollaboHunter
大学時代、
「殺したい相手がいてもその相手を殺すのではなく、相手の悪い所を殺してやるって気持ちでいくのが大切」
って話してくれた先輩さんがいたのを思い出します。
昔は僕もそう思って人に優しく甘かったんだけど
残念ながら嫌な「人」が先にあるから嫌な「行為」が起こるため、罪を憎んで人を憎まずにいればどんどん消耗するんだよなぁ
実際切り捨ててみたら快適な人生を歩めてるし
うわこれめっちゃ大事やと思う、、、
「行為」の評価をそのまま「ひと」の評価とみなすと
存在否定に繋がりかねないし
「ひと」の可能性を潰す危険がある。
私もつい、してるだろうから
気をつけたい。
わたしも同じです。
罪を憎んで人を憎まずではないですけど、特にネット上では個人が見えにくいので、人ではなく発言に対して是々非々で臨むようにしています。
志月架@声優志望❁定期浮上・ツイフィ更新@shizuka0215yume
うわぁ〜ちょうど、職場の方の行為が辛いなぁ〜と思ってたので、早速使わせて貰います!
やっぱり、発想の転換パラダイム転換って大事ですね!
ありがとうございます❁
このツイートがTLに流れてきたので凄く関係ない話するけど、古今亭志ん朝師匠が「「幇間持ちでメシ食ってんのは今はもう日本で二人だけだよ」って以前悠玄亭玉介師匠が言ってました」って昔の高座の音源で言ってたのって呼び方変わっただけだったんだな。今はプロ奢ラレヤーって言うのか…( ˇωˇ )
とてもいい解釈。
ほんとそう。人となりが嫌い、ってことはほとんど無い。
特に親しい友人や恋人は、「こういう人だ」っていうのはあらかじめわかってるしね。
いい距離を置いたり、何かおきたときのために回避策や解決策を考えるのが一番だとおもう。
そう!これよ!これwww
私が色々あっても何あっても人のことが嫌いになれないのはwww
そう、その人が嫌いなんじゃなくて、された言動に気づ付いたとか嫌だったとかで、それでその人の全部が嫌いとか許せないとはまた違うと思ってるんだよー。私はー_(:3 」∠)_
わかる。中高生の頃テレビ見てて「この人ほんとやだなー、なんでこんなにテレビ出てるんだろ」と思うことがよくあったけど、本人がどういう人かなんて分からないし、こういうことやってる(それが重用されている)のを見るのが嫌いなんだと気付いてからはそういう感情一切なくなった。
そして、その嫌な部分にフォーカスしてるのは自分って事。嫌な部分にフォーカスするより、良い部分にフォーカスする癖を付けると無敵です(笑)
「このひと嫌いだなあ」と思うことがありますよね。ぼくもあります。けど、よく考えてみたら、ぼくが嫌いなのは「ひと」ではなく、「行為」だったんですよ。そこで、「この行為は嫌いだなあ」と変換するようにしようと思ったけど、その嫌いな行為を積み重ねているからこそ、その人が嫌いなんですよ。
分からなくもないけど、一度特定の人物を嫌いになったらその人がどんな行為をしようと忌々しく感じてしまうんだよね。そうなったらもう「ひと」も「行為」も関係なくただただ「存在」が嫌いになる
自分の場合逆だったなぁ…
会社のめっちゃキライな先輩(誰からも嫌われてる)が最高に嫌だったけど会話の関心のある内容に注目することで無駄に精神消耗することなく7年仲良し演じられてた
なるほど、僕はクソ上司の行動が嫌いだったんだな。
呼吸してるところとか心臓が鼓動してるところとか_(:3」∠)_
という9割本気の冗談はさておきこれは素敵な考え方。